レコードデビューに必要な作品の作り込み方が分かった話

AKAI S3000XLを眺めるイラスト画像

僕は音楽をやることを目的に上京する手段として大学受験を選択しました。

結果、何とか1つの大学に合格し、ある程度長く東京にいられる環境を手に入れたんです。

この記事では、大学で出会ったすごい先輩たちに音楽について学び、ミュージシャンとしてレコードデビューするための一歩進んだ経験をしていくシーンを書いていきます。

音楽をやっていく方向性が決まった環境

僕は成城大学に入学し、音楽研究会(音研)という部活に入りました。

そこは音楽に詳しくておしゃれな先輩たちの宝庫でした。

フィリー・ソウルを教えてくれたハヤシさん、ブラックミュージックに広くて深い知識と「ある技能」をもったコサカイさん。

他にも同じように他の音楽ジャンルに関する知識と技能を持ったウメイさんや、コサカイさんの同期入学で2留したイノウエさん。

ウメイさんとは今現在も一緒にイベントを開催する仲に発展していきます。

イノウエさんは編集者として成功していくんですが、ここでは触れません。

他にも雑誌編集の世界で行きている先輩後輩が多いですが、このあたりはフリーペーパー「BEATNIK」の発行経験が影響していると思います。

基本的にみんな反骨精神というか、パンクの考え方を持った人が多かったですね。

そして総じてみんなおしゃれでした。

途中で退部する人も少しはいましたが、雰囲気に合わなかったんでしょうね。

音研は来る者拒まず去る者追わずの考え方が基本でした。

そういう自由な感じの中、自分がやろうと思ったことだけやれる環境がそこにはありました。

大学の授業だけがちょっとわずらわしいなと感じてましたが。

レコードを集める理由は2つある

音研では一部の人たちは古いレコードを集めています。

それは当時CD化されていないレコードが多かったし、ちょうどレコードレンタルというサービスがほとんど無い時代でした。

80年台にはレコードレンタル屋さんてけっこうあったそうです。

僕が大学生の頃って、古いレコードは中古屋さんで買うしかなかったですね。

この頃はCDで音楽が販売されていた時代。

まだ楽曲配信とかダウンロードサービスは出てきてません。

あっても携帯電話の「着メロ配信」くらいでした。

懐かしいですね。

なので、音楽を聞くには物理的にCDやレコードを買う必要があったんです。

もしくは、人に借りたレコードをカセットテープやMDに録音。

ですが僕は実際に自分の手元にレコードが無いと、持ってる感がなくて嫌でしたね。

好きな曲は全部買う方向でした。

ですが、中古レコード屋さんをいくら探しても見つからない曲も多かったです。

今でも探してるのもあるくらい。

レコードはたくさん持っていて、今はまったく聴かないのもありますが、売ったり捨てたりできません。

やっぱりコレクションとしての要素高めですね。

ですが、レコードを集める理由は2つあるんです。

①単に聴くため
②サンプリングするため

です。

サンプリングって何かというと、録音して音を加工して曲作り(もしくはDJプレイ)に使うことです。

このサンプリングは、普通に生活していると絶対やることありませんが、音楽を作る際には一つの手法としてメチャクチャ重要になります。

楽器演奏のみのバンドなどやっていると、サンプリングをするのが中々大変になります。

それは、音階をある程度無視しなくちゃならないからですね。

バンドもやってみたけど・・・

僕は大学に入って、音研のメンバーの一部とバンドをやった時期がありました。

学祭で披露しようと思ったんです。

自分で作った曲を演奏してみたかったんですね。

結果からいうと、うまくいきませんでした。

無事学祭での演奏はできたんですが、当初思い描いていたようなクオリティは出せなかったんです。

しかも、もうちょっと練習すればどうとかいう問題ではなく、まったくもって再現不可能な気がしました。

後に悟りましたが、僕が作りたい音楽はサンプリングや全体的な編集が必要なものだったんです。

ちなみに、学祭には受験時代に日吉台学生ハイツで一緒に遊んだミヤザワとマスザワ、ボンたちも来てくれたんです。

演奏中に奴らは寝てましたが・・・

徹夜で遊んだ帰りに寄ったようで、途中で僕のアパートの鍵を渡して寝させましたよ。

音楽的には残念な結果でしたが、思い出ですね。

サンプリングを極めることが不可欠

さて、自分が好きな音楽が分かった僕でしたが、やりたい音楽は少し違いました。

というより、フィリー・ソウルっていうのは、はっきりいって再現できるのはNHK交響楽団とか警察音楽隊とか、大規模なオーケストラなんです。

中学高校のブラスバンドでは無理です。

弦楽器がいませんからね。

壮大なストリングスを奏でるには、少なくても3人くらいバイオリンが必要です。

また、パーカッションや管楽器のアレンジは僕一人で何とかなるようなものじゃありません。

ようするに、生演奏で作っていくのは僕には無理なんです。

だから、作るのに現実的なものを考えたというのもありますし、やってみたらすごく面白かったというのもあります。

つまり、サンプリングは最初は妥協だったけど、やるうちに極めていくべき手法だと気づいた感じですね。

具体的には僕はジャンルでいうと「ハウス」を作ります。

ハウスはアメリカのシカゴ発祥の音楽で、元々はLGBTの性差別をなくすための運動の中で生まれた音楽でした。

ルーツとなっているのは僕が好きなフィリー・ソウルやモータウンから生まれた音楽だと言われています。

ハウスの先駆者はDJのラリー・レヴァンで、本拠地となったニューヨークのディスコ「パラダイス・ガレージ」でのプレイは今でも伝説として語り継がれる他、音源はレコード化されて販売されました。

さらに詳しいことは、調べれば今の時代ネットでいくらでも手に入れられます。

とにかく、ハウスはソウル音楽をDJがつないでロングプレイしたことからスタートして、サンプリングによって発展しました。

僕が始めた時にはすでにハウス発生当初の文化というか精神は薄れていて、単なるダンスミュージックのジャンルのひとつになっていたんです。

こうした文化的なことは後にコサカイさんに教えてもらうことに。

まずは作ってみるということで、どうやるのかというと、サンプラーを使います・・・。

サンプラーは特別な音楽機材で、特に僕が使う用途としての機体は、現在販売されてません。

AKAIのSシリーズという機種が僕が使うサンプラーのことです。

価格は当時新品で15万円くらいでした。

それを体を張った短期バイトで貯めたお金で購入したんですね。

よく頑張りました。

不協和音を気にしない勇気と決断

バンドをやったことがあると分かるんですが、ギターなど演奏する前にチューニングをします。

不協和音にならないようにですね。

ですがサンプリングでフレーズを録音すると、速さを変えたり元々の録音段階でピッチを変えてあったりすると音の高低がなかり微妙に合いません。

また、ボーカルなしのトラックの上に、DJプレイしながら別曲のボーカルのみを合わせていくとテンポは合っても、やはり音の高さがどうしてもズレます。

しかしDJのプレーを聴いてる時に、どういうわけかこうしたズレは気になりません。

むしろ、アレの上にコレを合わせてきたか!

と感心します。

あまりに極端なものは問題ですが、作品を作る際にこうしたサンプリング音源の音階の微妙なズレなどは許容する必要があるんです。

大胆さが大事ということですね。

in ニューヨーク!

音研の大先輩であるコサカイさんと、家でサンプリングしたり中古レコード屋さんに買い物に行ったりと、かまってもらうようになりました。

コサカイさんは音楽について幅広く、深い知識を持ってます。

それに加えてサンプリングやパソコンを使っての打ち込み、楽器や音階についての正しい知識、作曲の技能とセンスを持った人です。

コサカイさんの友達で、アキヒサさんという人がいます。

アキヒサさんは非常に面白く、あっけらかんとした性格で悩みがちな僕をいつも元気づけてくれる味方です。

僕が大学2年生の頃、三人でニューヨークへ行こうという話になりました。

最初は何しにいくのかわかりませんでしたが、どうやらコサカイさんは最近作った曲をニューヨークのレコードレーベルに持ち込んでデビューしようとしているようです。

アキヒサさんはというと、ニューヨークで遊んでみたいという昔からの夢があって、今しかそんな道楽はできないと考えていたとか。

僕はそんな二人の道中についていく形でニューヨーク行きの話に載ったわけです。

計画はほとんどコサカイさんが進めてくれました。

飛行機チケットの手配からホテル予約、散策するルートやレコードショップからレストランやスーパーの場所にいたるまで、ありとあらゆる情報を調べて提供してくれたんです。

僕も少し作り溜めた曲がありましたが、とてもレーベルに持ち込むような代物ではありません。

ですが、フライト当日の朝までがんばって仕上げてカセットテープに入れて持参しました。

クオリティ低いし、ハウスという見方で見るとセンス悪いし、まったくもって聞かせるのは恥ずかしいですが、一応ね。

ニューヨークに来ました。

初日〜3日間はセントラルパーク近くのホテルに滞在。

その後の計画は現地で決めるということで、散策しながら宿泊可能な場所も調べたんです。

ある情報が入ってきました。

それは、最初のホテルよりも南へ行って、インド人街付近にあるドミトリー「友達旅館」が快適で安いというもの。

同時期にニューヨークに来ていたコサカイさんの友人、カサイさんという人からの情報です。

紹介されて友達旅館をおとずれると、オーナーのジョンという人が出てきました。

英語です。

コサカイさんは黙って早口なジョンの長い説明を聴いています。

僕にはちんぷんかんぷん。

受験英語は少しはできたので、自分から英語を発することはできました。

ですが、リスニングはからっきしです。

コサカイさんはというと、長い沈黙の後、なんと返事をしましたよ。

理解してる・・・

その上で考えて、返答した・・・。

すごいですね、と僕が言いました。

英語分かるんですか!?

それに対してコサカイさんは、「6割」と。

6割わかってる!

これはもうおんぶにだっこですね。

アキヒサさんも僕も、現地の人には話しかけず、通訳も兼ねたコサカイさんというスーパーパーソンに全てを委ねることに。

コサカイさんは自分の作品を持ち込むべきレーベルもきちんと調査していました。

僕たち三人は、友達旅館を本拠地にして、マンハッタンを散策しながらコサカイさんは人知れずレーベルとアポをとり、その日時にはみんなで同行というのを何度かしてたんです。

すると、ほどなくして某レーベルから連絡が。

すぐ来て欲しいというんです。

到着すると、担当の白人男性が

「この曲はリズムがかっこよく、メロディも素晴らしい。ぜひリリースしよう」

と興奮気味に話しています。

という意味の英語でした。

ここだけはわかったんです。

rhythm is cool , melody is nice !

と言ってたと思います。

ところが、サンプリングした素材の著作権をクリアできないという問題が浮上。

なんとそのレーベルではリリースできないことになってしまったんです。

先輩のレコードデビュー決定の場に立ち会う

某レコードレーベルとの契約はサンプルの著作権がクリアできず成立しませんでした。

ですが、楽曲が高評価されていることには代わりありません。

コサカイさんの楽曲は、ニューヨークオーバーグラウンドハウスのDJ、ジュニア・ヴァスケスも気に入っていて、当時の伝説的なクラブ「TWILO」でも度々プレイされていました。

そのようなすごい曲を引っさげてレーベルを訪ねる活動なんて、そう同行できるものではないですし、貴重な体験です。

コサカイさんはニューヨーク在住のDJ・プロデューサーであるGOMIさんという方と以前から知り合いでした。

GOMIさんは当時ジュニア・ヴァスケスのブレーン的な存在で、自身の作品を手がける傍ら、ジュニアのサポートもしていた人です。

コサカイさんとアキヒサさんと僕は、ニューヨーク滞在中に何度かGOMIさんと食事をご一緒したり、TWILOのVIPルームに招いてもらったりと気遣ってもらいました。

その中でコサカイさんはいくつかアドバイスももらっていたようです。

そうしている間に、別のレーベルにてより具体的な話がまとまりそうになりました。

サンプルの著作権については、許可を取得する方向ですすめるが、もしNGだった場合には別のサンプルに変更して再編集し、リリースするという話です。

実質、レコードデビューはもうほぼ決定といって良いでしょう。

こんな場に立ち会うことができてかなり感激しましたね。

そして、自分も次来る時にはもっとすごくなって、レーベルに売り込むぞと、覚悟するのでした。

音楽家になるんで大学辞めます

大学の授業が非常に重荷になっていました。

2年生の授業が終了して、テスト期間のことです。

ちょうど実家の父の会社の経営も苦しくなっており、次年度の授業料について厳しいかも・・・という話もありました。

テスト勉強している時間と労力を、曲作りとバイトに費やせたらどんなに良いだろう。

これ、辞めるのが良いんじゃない?

ふと湧き上がるアイデア。

辞めよう!

心の中で退学を決めましたね。

そこから両親に伝え、快諾(笑)

大学に手続きしに行かなきゃ。

具体的な手順を知らなかったんですが、実際に退学しようとすると、それなりに大変でした。

何枚かの用紙に必要事項を書き、退学する理由を作文する必要があります。

それを職員会議で審査して、退学が決定するようで、即日口頭で終了ということにはなりませんでした。

退学理由の作文では、音楽家になるので退学します、と書いた記憶があります。

最初は職員の方に、DJとかプロデューサーと説明したんですがうまく伝わらず、職員会議で否決されても面倒なので、誰にでも伝わるように「音楽家」としたんです。

かくして僕は音楽をやるために上京し、その口実として利用していた大学を晴れて辞めることに。

音楽一本でやっていけるのか?

現実はそれほど甘くありませんでした。

次では、大学中退後、社会人として生計を立てながら「音楽家」デビューを目指す日々について書いていきます。

最後まで見ていただきありがとうございました。

では!

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